ach so 通信 - 東京モノレール沿線

ドイツにその大昔、滞在したときに真先に覚えた言葉が「ach so」。日本語の「あ、そう」と発音も意味もほとんど同じです。今は日本の「あ、そう」を捜し歩いています。たま〜にドイツ語圏(ドイツ・スイス・オーストリア)の情報もを発信します。

東北温泉旅行:その6

6月18日
今宵の宿銀山荘では(←写真はこちらで)露天寝湯を楽しんだ。

翌朝、銀山白銀公園を散策。銀鉱胴まで足を延ばした。

引用:
銀鉱洞(延沢銀山)概要: 延沢銀山は康正2年(1456)に儀賀市朗左ェ門が発見したと言われ、戦国時代には野辺沢氏が支配し、慶長3年(1598)は豊臣秀吉に銀を上納しています。鳥居氏が山形藩城主になると銀山奉公を置くなど積極的に鉱山の開発が進み、寛永年間に最盛期を向え、日本で指折りの銀山に成長していきます。天領になると御公儀山となり、代官陣屋も置かれ多くの人達が鉱山に携わるようになり寺院も48カ寺を数えます。しかし、江戸時代の中期になると次第産出量も減少し閉山します。現在は坑道の一部を開放し内部見学が出来るように整備され、「延沢銀山遺跡」として国指定史跡となっています。詳しくは⇒銀鉱洞


温泉街からちょっと歩くと白銀の滝が現れる。
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滝の向こうに見えるのはせことい橋。
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銀山川の岩は銀の作用か赤茶色に染まっている。
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昭和初期に造られた河鹿橋は周りの風景にすっかり同化している。
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緑と清い流れを楽しみながら歩くと
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「夏しらず」という道しるべが。
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何かと思うと坑道からひんやりとした風が吹いてきていた。
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銀抗洞入り口の石碑
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入り口を覘くとかなり暗い。
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明り取りから射す光が眩しい。
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頭上と足元に注意しながら一歩一歩進む。
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やっと出口が見えてきた。
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暗い鉱洞から出ると緑が眩しかった。
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江戸の中期に閉山になったという銀山。その頃の鉱山の仕事はどんなに厳しかったのだろうか。


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東北温泉旅行:その5

6月18日
山形から山形新幹線で大石田へ。
駅で宿のお迎えバスに乗り換え銀山温泉へ。
運転手さんが面白い話を披露してくれた。
冬はこの地方は雪が多く、昔は雪が降っても犬が喜ぶだけだったが、今は観光客と宿の女将が大喜びするという。
北海道出身のach soは冬の厳しさを知っているつもりだったが、東北の冬の厳しさは、また違うようだ。

引用:
銀山温泉は、かつて江戸時代初期の大銀山として栄えた「延沢銀山」の名称に由来しています。
大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べ、昔ながらの独特な景観を味わうことができます。
明治時代:
銀山温泉は奥州街道より約12km入った山間部にあり、当時は幅狭い悪路で、尾花沢からは難路1日もかかっていました。延沢銀山の衰退後、人口は激減しましたが、世間とは遮断された仙境で、人々は湯治客相手の湯端宿屋や小商いを行って生活していました。
大正時代:
かやぶき屋根の木造平屋や、二階建ての旅館が並ぶ湯治場がありましたが、大正2年銀山川の大洪水でほとんどの温泉宿が流されてしまいました。その後は温泉の湧出量が少なく、川水が進入し温度も低かったので温泉の利用は伸びませんでした。大正10年に銀山川の水を利用した発電所が作られ、その後の復興の足掛かりとなっていきました 。
昭和時代:
昭和元年に源泉のボーリングで高温多量の湯が湧出し、各旅館は一斉に洋風の3〜4層木造構造に建て替えを行いました。橋や沿道の整備も行い、ついに尾花沢より自動車で30分で到着できるようになりました。延沢銀山遺跡は昭和60年に国の史跡に指定されました。戦後は温泉街の洋風化も落ち着き、外観は和風に近づいてきました。昭和61年に「銀山温泉家並保存条例」を制定し、風情ある旅館を保存し観光復興に生かすことにしました。平成11年には新幹線の延伸により観光客の数が増え、今も伝統を生かした温泉街にしていくための努力を、街をあげて行っています。
詳しくは⇒銀山温泉


今宵の宿「銀山荘」に荷物を 置き、早速、町並みを見に出かけた。
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しろがねはしを渡ると大正ロマンの雰囲気が。
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そろそろ夕飯の時間だ。一度、宿に戻り夜の町並みを見に外に出た。
昼間とは違う温泉街が浮き上がっていた。

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7月26日、我が家のべランダ
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東北温泉旅行:その4

6月18日
山寺から山形市へ。
ちょうどお昼時だ。山形はおそばが美味しいと聞いた。
板そばなるものがある。どういう蕎麦かと聞くと1.5人前分のざる蕎麦みたいなものとの説明。
写真を撮り損ねたが、ざるではなく木で作られた長方形の浅い箱状の器に、薄く均一に盛られていた。量は1.5人分ではない。ゆうに2人前以上あった。太めの麺で歯ごたえもあり美味しく頂いた。
今日の宿「銀山温泉」への最寄り駅「大石田」行き山形新幹線の出発時間まで時間があったので霞城公園をぶらり。

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引用:
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は作られなかった。二の丸は一辺500mほどの方形、三の丸は1.5〜2kmほどの楕円形で、国内でも五番目の広さを誇った。

これらの城郭は、最上義光の時代におおよそ基礎がつくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。

現在は、そのほとんどが失われ、わずかに二の丸城址が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている。(県指定文化財)

山形市は平成21年(2009年)度までに本丸一文字門の枡形及び高麗門、本丸土塀を復元する計画を持っている。しかしながら、本丸一文字門は写真資料、設計資料ともに残っていない。(本丸北不明門の設計資料は山形市内に現存。) 詳しくは⇒山形城最上義光


現在も復元作業をおこなっている。

ちょうどお昼休みが終わった時間で、作業が再開されたところだった。
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丁寧に石垣の石を一つ一つ掘り起こしている。
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復元された二の丸東大手門。
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東北の雄のスケールの大きさに驚いた。
三の丸を含めた広さは江戸城を上回っていたそうだ。



7月20日のモノレール沿線
このあたりには東京の都心としてはまだまだ自然が残っている。

トンボと
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ちょうちょに出会った。
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東北温泉旅行:その3

6月18日
作並温泉を後にし、仙山線で山寺へ。
皆さんご存知の芭蕉が「閑さや岩にしみいる蝉の声」を詠んだ寺だ。
山寺駅に降り立つとホームから山寺の山容を窺える。

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引用:詳しくは⇒「山寺観光協会」
山寺(宝珠山立石寺)は、貞観二年(860年)清和天皇の勅旨により天台宗の僧、慈覚大師円仁によって開基された零場である。
本堂となる根本中堂には、本山である比叡山延暦寺より移し灯した「不滅の法灯」が千百余年、ほのかな光を放ち、遠い歴史を物語っている。
奥の院まで、千十五段の石段が続き、五十二万坪の境内には幽玄ともいわれる情景が広がる。


さあ、ここが千十五段の一段目。
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根本中堂でお参り。
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天にまっすぐ伸びる杉の間を石段が続く。
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見上げると、本当に天まで届きそう。
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山の中腹、仁王門を見上げる。
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奇岩の中に三重小塔が祭られている。
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五大堂から町を見下ろす。
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こんな岩の上にも祠がある。
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山全体から霊験を感じるがこの奇岩からは特別なものを感じる。
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鶯の声は聞こえるが姿は見えない。キョロキョロしていると下山途中でトンボに遭遇。
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約一時間。出口にたどり着いた。
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次の電車まで時間があったので、街中を散策してると、遥かかなたに出羽三山が望めた。
山寺で洗われた気持ちが、ますます清くなったような気がする。
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千百余年の歴史の凄さを感じた時だった。

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東北温泉旅行:その2

温泉旅行から帰ってきてから風邪を引いた。
熱、せき、鼻水。先週末は熱が39度近く出て、うんうん唸っていた。
まだ、すっきりしない。
皆さんも夏風邪には気をつけてくださいね。長引きます。

温泉旅行に戻ると、6月17日の宿は仙台の奥座敷「作並温泉」。
作並温泉は仙台から仙山線で約40分。作並駅まで宿の車が迎えに来てくれた。
Wikipediaによると作並温泉は

引用:721年(養老5年)に行基が発見したとも、1189年(文治元年)に源頼朝が発見したともいうが、これらは一個の伝説にすぎない。しかし古くから地元の人に知られていたらしく、1760年(宝暦10年)の『奥州里諺集』、1761年(宝暦11年)の『奥州仙台領遠見記』に作並の湯のことが見える。湯渡戸という坂のそばに温泉があり、石などで囲って近在の者が入湯した。湯治客が来るような著明な温泉地ではなかった。

1796年(寛政8年)に、若松喜惣治が仙台藩の許しを得て開湯に着手した。道路と設備を整えるのに8年を要したという。広瀬川の左岸(東岸)にある現在の鷹泉閣岩松旅館の前身である。これを古湯として、1855年(安政2年)に開かれたものを新湯という。出羽国村山郡猪沢の人秀治が、地元の石垣彦左衛門と奥山伊三郎と三人で開き、作並神湯と称したものである。古湯の北西対岸にあり、現在の神の湯作並ホテルの前身である。大正時代まで作並温泉には二つの旅館だけがあった。


今宵の宿はその岩松旅館だ。
岩松旅館の目玉は天然岩風呂。基本混浴だが、時間制限で日に2回、女性専用になる。
夜下見をして、早朝5時半にカメラを持って繰り出した。
天然岩風呂へ導く階段を写真に撮ろうと思ったら、番頭さんが「写真はダメです。」と。
客もいないし、階段だけ何とか許可を得て写した。
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中では絶対に写さないでくださいと念を押され天然岩風呂露天風呂に。
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これは岩松旅館のHPから借用した。詳しくは⇒「岩松旅館」

下を除くと(写真ご法度と言われたが、脱衣所から撮った。)
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温泉、澄んだ水、川のせせらぎ、朝のひと時を優雅に過ごした。


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Author:ach so
ドイツ語圏の話題から離れて早一年。最近はもっぱら地元の探索に凝っているach soです。

お断り:記事中の翻訳は正確性を欠く場合もあります。ご理解の程。

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